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主日礼拝
(棕櫚の主日)
「完了した」 2017年4月9日

 松下 信 牧師
ヨハネの福音書19章28節~30節
 本日は棕櫚の主日です。 イエス・キリストが平和の王としてエルサレムに入城された日です。
そして今週の金曜日に、主イエスは十字架に釘付けにされました。 今朝は、十字架の苦しみを受
けられた主イエスが、息を引き取られる直前に 「 完了した 」 と叫ばれたお言葉に焦点を合わせ
て、私たちキリスト者にもたらされる恵みについて考えてまいります。

Ⅰ.父を求める霊的渇き
 十字架に付けられたイエスさまは「わたしは渇く」と言われました。 それは「神よ。私のたまし
いはあなたを慕いあえぎます。 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」

(詩篇42:1、2)の預言の成就です。 ここには父である神を慕い求める霊的な渇きがあります。
 イエスさまの 「わたしは渇く」 という叫びを聞いたローマ兵たちは、のどの渇きを訴えていると思
い、イエスさまに酸いぶどう酒を与えました。 「彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、私が
渇いたときには酢を飲ませました。
」(詩篇69:21)の預言の成就です。

Ⅱ.贖いを完了された主イエス
 イエスさまは酸いぶどう酒を飲まれると、「完了した」 と言われました。それはどういう意味でし
ょうか。 息を引き取る最後の瞬間が来たという断末魔の叫びであったのでしょうか。
 いいえ、そうではありませんでした。 「完了した」 とは、主イエスの勝利の喜びでした。
旧約聖書の預言をすべて成就して、贖いのみわざを成し遂げられた主の勝利の雄たけびであり
ました。

Ⅲ.完全な贖い
 主イエスが死なれた目的は、全人類の罪を贖うことです。 イエスさまは、小羊として十字架とい
う祭壇の上にささげられたいけにえでした。 大祭司は年に一度、イスラエルのすべての民の罪を
贖うために、至聖所に入りました。 しかし主イエスが十字架の上で死なれることによって、全人類
の罪は完全に赦されたのです。 もう大祭司の贖罪は必要がなくなりました。 一度だけ主イエス
が小羊として父なる神の御前にささげられたことにより、救いのみわざは完全に成し遂げられた
のです。  
 ルカは次のように言っています。 「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くな
って、三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。 また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。」

 (ルカ23:44、45) 神殿の幕とは、聖所と至聖所を隔てる幕です。 その幕が真っ二つに裂け
たことで、至聖所はその使命を終えました(ヘブル9:12、25、26)。

【 結 論 】  
 すべての人間は必ず死にます。 しかし、キリストを救い主として信じる人々にとって、死は恐れ
るに足りない存在です。 なぜなら、死は罪の結果もたらされたものだからです。信じる者は死ぬこ
とがなく、永遠のいのちを持つのです。 真理であり、真実であられるイエスさまが語られたみこと
ばを信じましょう。
「わたしは、よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
 
                                          (ヨハネ11:25)  
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