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「原罪に対するキリストの救い」 2008年7月6日

松下 信 牧師
ローマ人への手紙5:12−21
「原罪」とは、神から離れ、心の中で神に敵対することであり、根源的、普遍的な一つの罪
であります。 この「原罪」とさまざまな日常的罪とを混同してはなりません。
この誤りを犯したのが、パリサイ人でありました。


1.「原罪」の罪を犯したパリサイ人
彼らは口で言い、行いで実行して律法を真剣に守った人々でありました。
だからこそ、当時の社会で権威をもって人々から尊敬されていました。 では、彼らの何が
いけなかったのでしょうか。 それは、マタイの福音書23章5節にも書いてあるように、彼
らのすることはみな 「人に見せるため」 であったということです。 自分の立派な信仰の
姿を人に見せることによって、人々から称讃を得ようとしたのであります。 これが自己中
心という神さまに対する反逆であります。  このパリサイ人の生き方の中に、「原罪」 その
ものがまかり通っていたのです。 


ですから、私たちは 「原罪」 ということばで表現されているサタンの力、私たちの中に入り
込んで、私の事実となっている悪の力と戦うことを、最優先の問題としなければなりません
。 この点を怠ると、「パリサイ人のように立派にさまざまの正しいことをしながら、それを誇
り、神に帰すべき栄光を自分のものにする」 過ちを犯す者となるのであります。 つまり、
神を信じているといいながら、神を崇めない、神に従わない、神不在の信仰者となりさがる
のであります。
『私たちは役に立たないしもべです。 なすべきことをしただけです』 (ルカ17:5−10) と告
白するしもべのように、私たちは、栄光を神に帰すことを心得た生き方を求める者とされた
いものであります。


2.「原罪」に対するキリストの救い
「原罪」 の場合は、ひとりの人アダムの罪によって入るのに対して、救いの場合はイエス・
キリストの恵みと義の賜物とを受けるものは、その受けていることによって救われるのであ
ります。
要するに、「原罪」とは、だれもがどうしようもなく振り回されている、自己中心に屈した人間
の惨憺たる惨めな現実であります。 そして、十字架の死に至るまでのへりくだりによって
示された神の愛に、ただそのままを委ねることによって、ひとり一人が奇跡的に、それから
解放されるより他ない現実であります。  この現実をいにしえの教会は「原罪」という言葉
で表現してきたのであります。 
大切なことは、「原罪」という言葉ではなくて、「主の恵みによらなければ、どうしようもない、
自分自身の惨憺たる事実」 を忘れないことであります。


【 結 論 】
イエスさまにとっては、すべての人が悔い改めを求められている罪人であったということで
あります。 
また、イエスさまは、「原罪」 そのものについては何も語っておられませんが、「原罪」 につ
いて深い理解とその対処の仕方を良く心得ておられました(実例マルコ2:1−5など)。
イエスさまの関心もパウロと同様、一つ一つの悪い行いよりも、「原罪」 そのものに注がれ
ていました。

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