主日礼拝 | 「キリストにとどまり、実を結ぼう」 | 2018年5月6日 松下 信 牧師 |
ヨハネの福音書15章5節 ヨハネの手紙Ⅰ2章24.25 | ||
Ⅰ.ぶどうの木とその枝 主イエスは、その福音書15章の中で 「キリストにとどまれ」 と繰り返し喚起しておられます。 キリストはまことのぶどうの木であり、父である神は、ぶどうを栽培する農夫であると紹介されて います(1節)。 また農夫である神は、実を結ばない枝を取り除き、もっと多くの実を結ぶために 刈り込みをされるとも教えておられます(2節)。イエスさまは豊かに実を結ぶために、枝はぶどうの 木にとどまり続けることが必要であると繰り返し教えておられます(4節~7節、9節~10節)。 Ⅱ.キリストにとどまれ イエスさまは 「キリストにとどまれ」 と、どうして勧めておられるのでしょうか。 (1)ぶどうの木にとどまることで、その枝はいのちを保つからです。 イエスさまの愛の中にとどまる者は、豊かな実を結ぶことができます。 しかし、ぶどうの木で あるイエスさまから切り離された枝は、枯れて死んでしまいます。 (2)とどまることができず、離れてしまう人々が多いという現実の中で、キリストにとどまり続け 実を結ぶことの恵みを教えておられます。 Ⅲ.どうして離れてしまうのか? 多くの人々がイエス・キリストにとどまることができず、離れてしまうのはどうしてなのでしょ うか。キリストは招いておられます。 信じるためには、彼のところに行かなければなりません。信 じて彼のうちにとどまることは、比較的簡単です。イエスさまの大いなる知恵と力に信頼すること はたやすいのです。 しかし救われた後に、私たちは彼を信頼しません。自分の力や経験によって、 何でも成し遂げられると思い込んでいるからです。 主への信頼はひとかけらもありません。 ぶどうの枝がその木にとどまる必要があるのは、救われてすべて終わりではないからです。 ぶどうの枝は成長し、実を結ばなければならないのです。キリスト者が期待されているのは、成長 し、堅く信仰を築き上げて、豊かな実を結ぶことです。 キリストから離れた者は何もできないのです。 Ⅳ.すべての恵みは神から来る キリスト者にとって、人々のために、世界のために、神のために生きることほど幸いなことはあり ません。 自分のために生きることの虚しさを知っているからに違いありません。 神の栄光を現すことこそが、人間に与えられている最高かつ最善の人生の目的なのです。 イエス・キリストにとどまり、また彼のうちにあることによって、神から、いのち、愛、義、清さ、 平安、喜びなどのあらゆる賜物をいただくときに、私たちは自らの貧しさや愚かさを実感し、同時に 神の偉大さと豊かさを知るのではないでしょうか。 【 結 論 】 キリストにとどまり続けることは、私たちにとっていかに大きな祝福であるかをかみしめ、味わい ましょう。 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中 にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは 何もすることができないからです。」 (ヨハネ15:5) |