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主日礼拝 「畏怖の念」 2016年7月3日

 松下 信 牧師
出エジプト記3:1-6
公同礼拝が始まる5分前になっても静まらない。 あちらこちらから話し声が聞こえてきます。
時には笑い声まで・・・。 私たちは本当の意味で神さまを礼拝しているのでしょか。

Ⅰ.礼拝とは「神を神として拝むこと」である
礼拝とは何でしょうか。 広い意味では、イエス・キリストの救いのみわざを土台として、すべての生
活を神にささげることです。 狭い意味では、イエス・キリストの救いのみわざを土台として、イエス
の御名によってキリスト者が集まり、神を神として拝むことです。 主イエスをほめたたえず、主イエ
スの力を認めないなら、それは神を冒瀆(ぼうとく)し、侮辱することにほかなりません。

Ⅱ.神が臨在される場所は「聖なる地」である
神である主はモーセを呼び出し、ご自分の器として召されました。 ここで注目したいのは、「ここに
近づいてはいけない。 あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
(5節)というみことばです。 神が臨在される場所は 「聖なる地」 です。 モーセは足のくつを脱が
なければ、そこに近づくこともそこに立つこともできませんでした。 モーセには主に対する畏怖の念
がありました。

Ⅲ.神のご性質全体をひとことで表したのが 「聖」である
畏怖の念はどのようにして与えられるのでしょうか。 神さまが聖であることを意識するところから生
まれます。 「聖」 とは何でしょうか。 「聖」 とは神のご性質全体をひとことで表す言葉です。

(1)神は力あるお方 (2)神は愛のお方 (3)神は義であるお方 (4)神は真実であるお方
(5)神は善であるお方 (6)神はきよさに満ちたお方。

これらの神のご性質を全部ひっくるめて 「聖」 と言います。 だから、聖なるお方は神さまひとりだ
けなのです。 「聖」 という言葉を使えるのは神さまだけなのです(イザヤ6章1-7節)。
モーセもイザヤも 「聖なる」 お方を畏怖の念をもって礼拝しました。 私たちもこの公同礼拝にお
いて、聖霊さまの導きの中で、主にまことの礼拝をおささげいたしましょう。

【 結 論 】  
私たちは勘違いしています。 祝福を受けるために礼拝出席しているのなら、大きな間違いです。
私たちは主を崇め、主をほめたたえるために礼拝をささげているのです。
カトリック教会のロヨラは次のように言っています。 「人間は、主なる神をほめ、崇め、仕えること
を目的として造られたのである。人間の第一の義務は崇めることである」 と。  

礼拝とは 「イエス・キリストの救いのみわざを土台として、イエスの御名によってキリスト者が
集まり、神を神として拝むこと」
です。 畏怖の念とは、「神の『聖』を意識すること」 です。
神さまが 「聖なる、聖なる、聖なる」 お方であることを知ることによって、神さまに対する畏れが
生じるからです。 自分自身の罪深さを知ることで、きよくなりたいと思い謙遜にさせられます。
ここから、主を拝む心が生じるのです。
畏怖の念をもって、主にひれ伏し、主を拝み、主をほめたたえる者とさせていただきましょう。

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