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主日礼拝
(第2アドベント)
「神の権威のもとで生きよう」 2023年12月10日

 廣坂 洋行 伝道師
マルコの福音書11章27節~33節
 「権威」という言葉は、私たちを自由へと解き放つ響きをもつだろうか。 それとも反対
に「権威」という言葉は私たちを束縛へと縛り付けるものだろうか。 私たちの救い主なる
神は、まことの権威をお持ちである。 そしてその権威は私たちを縛り付けるものではなく、
私たちを罪から解き放ち、自由の中へと生かすものである。
 一方で、この世にあって「権威」という言葉はまったく反対の響きをもつのではないだろ
うか。 重い言葉であり、権威者は私たちを縛り付けるものであるかのように感じられる。
けれども、私たちはまことの権威者から逃げるのではなく、私たちを自由と喜びへと解き
放ってくれる権威者のもとで憩いやすらぐことができる。

1. 権威と権威のぶつかり合い
 朗読された聖書箇所には「権威」ということばが繰り返されている。 そして二種類の権
威者がぶつかる場面が描かれている。 一方は祭司長たち、律法学者たち、長老たち。
七十人議会、サンヘドリンというユダヤ人議会の構成員であり、その地の権威者であった。
その権威者たちが、王のようにエルサレムへ入場し、民に迎え入れられ、宮から商売人たち
を追い出すという力あることをなさったまことの神の権威者、主イエスと相対しているので
ある。 ここでは権威と権威のせめぎ合いが見られる。
 といっても、祭司長たち、律法学者たち、長老たちはまことの権威者を恐れるのではなく、
人を恐れていることが浮き彫りとなる。 「何の権威によってこれらのことをしているので
すか」 と問う祭司長たち、律法学者たち、長老たちに対して、主イエスは逆に問い返す。
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか。 それとも人から出たのですか。」
その主イエスの問いに祭司長たち、律法学者たち、長老たちは答えることができない。
彼らが神の権威の中ではなく、群衆を恐れる、人を恐れる者たちであったからである。

2. 私たちを解放する神の権威
 人を恐れて答えることができなくなる。 そこには祭司長たち、律法学者たち、長老たち
がそもそも主イエスに「何の権威によって」と質問したのは純粋な思いから出たのではなく、
イエスを罠にかけようとする思いからでたことが滲み出ているが、それでも「人を恐れて」
何もすることができなくなるということは、この世に生きる私たちにもあることかもしれな
い。 さらには、神の権威を認めようとせず、人の権威に縛り付けられ、不自由に追い込ま
れることが少なくないだろうと思う。そのような不自由な権威の束縛のもとに主イエスは到
来なさった。
 アドベントを迎えた。 罪に束縛される私たちを解き放つために、人となられてこられた
まことの権威者をお迎えする季節となった。 主イエスはまことの神の権威を持つ権威者で
ある。罪を赦す権威をお持ちで、律法学者たちのようではない権威をお持ちで、嵐に「黙れ、
静まれ」とお命じになる権威をお持ちで、病を癒し、死者を甦らせる権威をもっておられる。
そのお方が私たちを救い出すために、ご自分の神としての権威を放棄して、人として、小さ
な嬰児としてお生まれになってやってきてくださった。 このまことの権威者の前で、私たち
も人を恐れ、頑なになる鎧のような恐れを脱ぎ捨て、子どものような自由さを回復したいと
思う。

 神のまことの権威は私たちを縛るのではなく、私たちを解き放ち、救い出すものとなる。

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