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主日伝道礼拝
「神の御前での祈り」 2024年2月18日

 廣坂 洋行 伝道師
マタイの福音書6章9節~13節
 主イエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りから、祈りを学び続けています。
祈りの生活で私たちが学ぶことができるのは、私たちが神の御前にいるということではな
いでしょうか。 「天にいます私たちの父よ」、「アーメン」と祈るときに、私たちの目の前
には神さまがおられることを意識せずにはいられません。祈り終わった後もその祈った神さ
まはともにおられるということを祈りの時に私たちは覚えることができます。
 祈りの生活で私たちは、私たちが神の御前で生きているということを教えられます。

1. 私たちに先立たれる神さま
 主の祈りは神の御前にあるその私たちの生をまっさきに思い出させます。 主の祈りは
2部構造の祈りをしています。 9-10節が前半にあたり、11-13節が後半にあたります。
9-10節は日本語訳では表現されていませんが、神さまのことを「あなた」と呼んで祈り出
す祈りです。 「神さま、あなたの御名が聖なるものとされますように」、「神さま、あなた
の御国が来ますように」、「神さま、あなたのみこころが天で行われるように地でも行われ
ますように」という次第です。 新約聖書の翻訳前のギリシャ語ではその「あなたの」という
ことばが印象深く繰り返されています。 そして11-13節では対照的に「私たち」のことが祈
られます。 「私たちの日ごとの糧を」 「私たちの負い目を」 「私たちを試みにあわせな
いで」、という具合です。 覚えていただきたいのは、主の祈りは「私たち」のことを祈る
前に、神さまのことを「あなた」と呼び、神さまのことから祈り始めているということです。
 私たちの祈りにおいても、自分のことを語り出す前に、天におられる父なる神さまを見
上げて、神さまのご計画を思い巡らし、祈り始めるようにと、主の祈りは私たちに教えて
います。 なぜ私たちのことよりも、まず神さまのことから祈るべきなのでしょうか。
それは神さまが私たちに先立って歩んでくださっているからです。 私たちが神を創造して
いるのではなく、神さまが私たちを造り、生かしてくださっているのです。 旧約聖書にイ
スラエルの民が荒野を旅したという物語が記されています。その荒野の旅において、神は、
夜は火の柱、昼は雲の柱の中にご自身をお示しになられて、旅するイスラエルの民の先を
進んでいかれました。そしてイスラエルの民はその火の柱、雲の柱が進み出せば歩む、
止まれば動かないという神さまを中心とした生き方を学びとっていきました。

2. 私たちの不完全とともに進まれる神さま
 主の祈りを祈り始めるときに、私たちの生き方に神さまを中心とした生き方が形作られ
てゆきます。 祈る前は私たちは完全な神さまのことなどどうして私たちが祈らなくてはな
らないのだと思われるかもしれません。 私たちが祈らなくても、神さまの御名はすでに聖
なるものだし、御国は来るはずだろう、みこころも行われるはずだと感じられるかもしれ
ません。 確かにそうです。私たちが祈ろうと祈らなくても、神の御名は聖で、御国は確か
に来ます。 みこころもなしとげられます。 けれども、それは神の御前を生きる私たちと
無関係のものであってはならないのです。
 神さまは私たちのためにご自身の聖なる御名を示され、御国を来らせたまい、みこころ
をなしとげてくださるのです。 そのために、私たちは御名が聖なるものとされますように、
御国が来ますように、みこころが行われるようにと祈らねばならないのです。

3. 神の国の完成を待ち望みつつ
 私たちが祈るのは私たちのためでもあるのです。 希望をもって神さまの救いのご計画の
完全な実現を待ち望むために、私たちは主の祈りを祈り続けなればなりません。
明日のこともわからぬ私たちには神さまが確かに成し遂げてくださるという希望が必要で
す。 その希望に生きるために、主の祈りが私たちに教えられているのです。主の祈りを
祈りつつ、今日、明日と一つ、また一つと私たちに用意しておられる神さまの救いのご計
画が少しずつ実現するのを見せていただきましょう。 そして、やがて、その神のご計画は
確かに完全に成就します。 神の国がこの地に実現される日が来るのです。
 その日を希望をもって待ち望みつつ、私たちは日々主の祈りを祈っていくのです。

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