「新しい心」 | 2014年5月4日 松下 信 牧師 |
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エゼキエル書36章26節 | ||
T.序 エゼキエル (前593−571年) は祭司ツァドクの血を引くブジの子として生まれ、バビロン捕囚にな る前は、エルサレムの神殿で祭司として仕えていました。 彼は紀元前597年、エホヤキム王が 捕囚になった時に、一緒にバビロンに連れて来られました。 エルサレム滅亡の11年前のことで あります。 彼はバビロンに連れて来られた5年後に、神からの召命を受け預言を始めました。 彼は一生バビロンで過ごしました。 彼はバビロン捕囚とエルサレムの滅亡という苦しみと嘆きの 中で、神から預かったみことばを語りました。 エゼキエル書は、1章−24章は「エルサレム滅亡の預言」、25章−32章は「諸国民について の預言」、そして33章−48章は「イスラエルの回復と終末の栄光の預言」という構造になって います。 また、36章の内容は (1)イスラエルの国土の回復 (1節−15節)、 (2)イスラエルの民の回復と霊的再生 (16節−28節)、 (3)回復した民に与えられる物質的祝福と悔い改め (29節−38節)です。 U.霊的に新しくされる 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたが たのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(36:26) イスラエルの民が回復するためには、霊的に新しくされることが必要でした。 民が散らされること になった原因は、彼らが偶像を礼拝し、主のことばに耳を傾けなかったことによります。 それゆえ に、主はきよい水を彼らの上に振りかけ、彼らをあらゆる汚れからきよめられます(25節)。 水とはイスラエルの宗教的(儀式的)な水であり、表面的汚れを洗い落とすものでした。 霊的に解 釈するなら、水は主の霊と考えられ、本質的に心の中から民の汚れをきよめると信じられてい ました。 民の偶像礼拝と不従順という心の中の汚れをきよめるためでありました。 V.新しい心、新しい霊 「新しい心」 は新しく変えられた人の心、「新しい霊」 は人に注がれる主の霊を表します。 その霊は 「主のみことばに聞き従おうとしないかたくなな心」 を取り除き、「みことばに聞き 従う素直な心」 を与えるのです。 みことばに聞き従う素直な心 (肉の心) を与えられた民が、心 から喜んできよい生活をしていくのです。 このような内面の変革は、主と民との契約関係 (28節) が成り立つためにはどうしても必要なことであります。 この 「新しいイスラエルに加わる経験」 を 新約の視点でみるなら、イエス・キリストにある贖いを受けることと関係があるのです。 十字架による救いに与ることこそ、イスラエルの民に限らず、すべての人間に必要な 「罪か らの救い」 なのです。 【 結 論 】 私たちは 「新しい人を着る」 という年間主題を掲げて新しい歩みを始めています。 新しい人を着るとは、イエス・キリストにあって救われて、新しいいのちを受け取っている人々のこ とです。 「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。 これは神の豊かな恵みによることです。」 (エペソ1:7) |