「自分を義人だと自任するもの」 | 2014年7月6日 松下 信 牧師 |
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ルカの福音書18章9-14節 | ||
T.序論 今朝はふたりが祈るために神殿に上ったというたとえから、「自分を義人だと自任するパリサイ人」 の姿を通して、その祈りと信仰の中に潜む罪の問題を取り上げます。 U.隣人を侮る祈り この祈りは、あらゆる教えや戒めを無に帰してしまいました。 このパリサイ人は神を否定し、隣人 に対してよいことをしていないからです。 彼は滅びに入りました。 なぜなら、彼は律法の一点を守 り行わなかったからです。 もし、『ああ、神さま。私たちはみな罪人です。 この哀れな罪人も私も、 ほかのすべての人間と同じです。』 と言うなら、彼は神の第一の戒めを守り、神をほめたたえたこ とになったに違いありません。 しかもそのあとで、『ああ、神さま。 私はこの取税人が罪人であり、 悪魔の餌食にされているのを見ます。 愛する主よ。 彼を助けてやってください』 と祈り、彼を背負 い、神の御前に運んでゆき、彼のために祈ったとしたら、このパリサイ人はほかの戒めも守り行っ たことになったのではないでしょうか。 これこそ私たちクリスチャンに示されている 「愛の戒め」 なのです。 パウロは 『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』 (ガラテヤ6:2)と言っています。 V.警告・・・高ぶる者が陥りやすい罠 パリサイ人は、自分が正しい者であると自己礼賛するためにやって来ました。 自分の徳を誇り、 自分の行いに自信があることをひけらかすために来たのです。 自分がどのように断食し、全収入 の十分の一をささげているかを述べ、自身の考えによるよいわざを最も華やかに誇っているので す。 その後、隣人に向かって憎しみのあらん限りを注いでいます。 かりに神がこのパリサイ人を 裁判官とされたならば、この哀れな取税人は、間違いなくよみの深みにまで投げ込まれたことでし ょう。 すべての人が滅んで、自分だけがたたえられることを望むとすれば、それは邪悪な心であり 、聞くに堪えないことではないでしょうか。 私たちも細心の注意を払って自分の魂を見張らないな らば、このパリサイ人と同じ過ちを犯し、同じ罠にかかる可能性は十分にあります。 物事が順調に 運んでいると思える絶頂期に、私たちはパリサイ人のような失敗を犯すのです。 高ぶり、神を否定 し、他の人々を軽蔑するのではないでしょうか。 【 結 論 】 神を認め信じることは、私たちを敬虔にします。 神を信じないことは、私たちを高慢にします。 神が人間を尊い命として創造されたことを信じることは、自分自身を尊び大切にする心が生じます。 主の御前に出て、自分の罪を知り悔い改める者は敬虔で勇気ある人です。 取税人は自分の罪を 認めました。 彼の敬虔な祈りは神に受け入れられたのです。 「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて 言った。 『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」 (ルカ:18:13) |