主日礼拝 |
「過ぎ越された主」 | 2015年2月15日 松下 信 牧師 |
出エジプト記12章21-36節 | ||
T.エジプトを脱出するためのみわざ 430年間滞在したエジプトは、イスラエルの民にとって今や安住の地ではなくなっていました。 エジプトの宰相であったヨセフを知らないパロが登場すると、イスラエルの民は奴隷とされ苦しむ ようになりました。 イスラエルを奴隷の身分から解放し、約束の地に導くために、主はエジプトか らイスラエルを脱出させられました。 この出来事のために用いられたのがモーセでした。 ヘブル人の両親から生まれた彼は、不思議な巡り合わせで、パロの娘の息子として育てられ、 当時のエジプトにおける最高の教育を受けました。モーセの働きかけにもかかわらず、イスラエル がエジプトから脱出することを頑なに拒み続けたパロは、最後にこれを許しました。 そのわけは主の過ぎ越しでした(29−33節)。 U.主の救いのみわざ 過ぎ越しとは何でしょうか。 主はその夜、エジプトを打つためにエジプトの地を巡り、初子を殺さ れました。 悲痛な叫び声がエジプト全土をおおいました(12節)。 ところが、エジプトに住んでいた イスラエルの初子は殺されませんでした。 いったい何がエジプトとイスラエルを分けたのでしょう か。イスラエルは主の警告に聞き従い、エジプトはそうしませんでした。これが過ぎ越しなのです。 イスラエルの人々は、家ごとにアビブの月の14日の夕暮れに、家族の人数に応じて傷のない 1歳の雄の子羊をほふりました。 その子羊の血をとって家の門柱と鴨居に塗りました。 子羊の肉 はその頭も足も内臓も火で焼かれ、その骨を折ってはなりませんでした。 その肉は種を入れない パン、苦菜と一緒に儀式に従って食べられました。 それを翌日まで残しておいてはならず、朝まで 残ったものは火で焼かれました(1−10節)。 このようにした家、門柱と鴨居に子羊の血が塗られた家の前を、主は過ぎ越されました。 その家の初子には害を与えませんでした(23節)。 こうして、神の教えに従ってそのとおりに行 ったイスラエルは救われ、主に背を向けたエジプトは初子が打たれて死ぬという苦痛を味わうの です(29−30節)。 神は過ぎ越しの恵みを繰り返しイスラエルに教え、またイスラエルは過ぎ越しの 恵みを忘れないために、繰り返し子どもたちに教えました。 【 結 論 】 出エジプトの出来事はイスラエル民族の存在そのものを左右するものでした。 過ぎ越しは、まさ にイスラエルを奴隷から解放し、約束の地に導くものでした。 約束をその通りに遂行する主の 誠実さのあかしがここにあります。 毎年祝われている過ぎ越しの祭りとは、神が自分の民のため に行われた偉大なわざを思い起こさせるものです。 まさにこれを記念するものです。 キリストは神の子羊として十字架上で血を流され、信じる者を罪から解放し、永遠のいのちを与 え、真の自由を与えられました。 過ぎ越しのみわざ(イスラエルの出エジプト)は、まさにキリスト の贖いのひな型なのです。 私たちがキリストの贖いのうちにあることは、何と大きな恵みでしょうか。 |