主日礼拝 |
「キリストにとどまれ」 | 2018年1月7日 松下 信 牧師 |
ヨハネの福音書 15章1節-5節 | ||
Ⅰ.枝を取り除き、剪定される主 イエスさまは1節から5節の中で、二つのたとえを紹介しておられます。 1節は「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である」と言われ、5節では 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝である」と語られています。1節では父なる神とイエス・ キリストとの関係が語られ、5節ではイエス・キリストと私たちキリスト者との関係が語られてい ます。 ぶどうの木は実を結ぶために栽培されています。ですから実を結ばない枝であるキリスト者 は取り除かれます。 また実を結ぶ枝であるキリスト者は、もっと多くの実を結ぶために、剪定され ます(2節)。 これらのことを聞くと、私は取り除かれないだろうか、刈り込まれないだろうかと心配 になるのではないでしょうか。心配しないでください。イエスさまは、私たちキリスト者は、すでに きよめられているから大丈夫だと太鼓判を押してくださいました(3節)。 Ⅱ.「わたしにとどまれ」と命じられるキリスト イエスさまは「わたしにとどまりなさい。」(4節)と言われました。これは主の命令であって強制 力を伴うものです。 なぜなら、ぶどうの木から切り離された枝は、死んでしまいます。 ぶどうの木 に繋がっていなければ枝にいのちはありません。実を結ぶこともできないのです。同じように私たち キリスト者もイエスさまに繋がっていないなら、霊的に実を結ぶことができないのです。 霊的な意味において、実を結ぶとは何を意味しているのでしょうか。 Ⅲ.実を結ぶためにキリストにとどまれ 霊的に実を結ぶとは、みことばを引用するならガラテヤ人への手紙5章22節、23節が相応しい のではないでしょうか。 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 このようなもの を禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22-23) 霊的に実を結ぶとは、直接的にはみことばを 宣べ伝えて新しい魂を獲得することです。 さらに多くの間接的な奉仕が関わっています。祈ること、 ささげること、食事を作ってもてなしたり、礼拝のために環境を整えたり、さまざまな奉仕が魂の 救いに伴ってなされているということです。イエスさまを愛している人々は、何らかの奉仕を通して 実を結ぶ働きに参加しているのです。 さらにイエスさまは言われました。 「同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4節後半) 私たちは一人だけで生きていけると考えることがあります。 しかし、どんなに有能で、知恵と力に 満ちている人であっても、自分一人の力だけでは、決して生きることはできません。いのちの源は イエスさまです。 【 結 論 】 聖書はキリストにとどまるなら、そこには豊かな祝福、「いのち」ある世界があなたに約束されて います。神の国において、愛と希望と平安に満ち溢れた、喜びの人生があなたのものとされるのです。 「わたしにとどまりなさい」とイエスさまは繰り返し命じています。 |