主日礼拝 | 「あなたの神、主を愛せよ」 | 2022年1月9日 松下 信 牧師 |
申命記 6章 4~9節 | ||
Ⅰ.「主を愛するとは」何か 今朝は「唯一の主を愛すること」に焦点を絞ってお話しをさせていただきます。 「主を愛する」とはいったい何でありましょうか。イスラエルの民をエジプトから導き出した 指導者であり、預言者であり、律法を授けられたモーセは霊的な指導者としてイスラエルの 民を神の御心にかなう道に歩むようにと、命がけでとりなし祈った人物であります。 このモーセは主を畏れ主を礼拝することによって神を愛しました。神を愛するとは、神を 礼拝することに集約され、凝縮されるのであります。 Ⅱ.「拝むこと」が礼拝の中心である 私たちは毎週、主日に神である主を礼拝するために御前に集められていますが、礼拝の 本質は「拝むこと」であります。 呼び集められた神の民は、御前にひざまずき、ひれ伏し、 額ずいて神である主を拝むのが礼拝の本質なのであります。 日本人が正月に神社に初詣を して、神々に手を合わせるように。また路傍のお地蔵さんの前で首(こうべ)をたれ、手を 合わせるように。私たちキリスト者も、真の神である主に対して首をたれ、手を合わせて、 このお方を拝むのです。 その時、どうして、ふんぞり返っていられるでしょうか。足を組ん でいられるでしょうか。 暑いからといって、うちわであおぎながら、主を拝むことができる でしょうか。私たち(教会)の礼拝行為は、主を拝むという本質からずれてきていないでしょ うか。神である主が期待しておられるのは、目に見える行為ではありません。私たちの心です。 心の姿勢なのです(詩篇51:15-17)。 Ⅲ.柔和なモーセのように 私たちはモーセが神の御前に命をかけて出て行ったように、畏怖の念と主を尊敬する心と 敬虔な心をもって主の御前に出て行くべきであります。 御前にひれ伏し、主に感謝と賛美を おささげするのです。 大きな声が出せなくても、心から主をほめたたえることはできるはず です。 再び、身を引き締めて感染予防に努めなければならない状況になってきましたが、集 められて共に主を拝むことができれば、最善であるとぜひ心に留めていただきたいのです。 十字架に死に三日目によみがえられたイエス・キリスト、今も生きておられる主を、心を尽 くし、いのちを尽くし、力を尽くして拝むとき、私たちは変えられて成長させられて行くので す。 モーセがそうであったように、主の御前に謙遜なものとさせられて行くのです。 私たちキリスト者にとって必要なのは礼拝です。霊とまことをもっておささげする礼拝なの であります。 聖書はモーセの人となりについて「地の上のだれにもまさって柔和であった。」 (民数記12:3)と語っています。 【 結 論 】 「聞く」ことは、いかに大切なことでありましょうか。心の壁を打ち砕き、私たちを謙遜な 者としてくださるのは、主イエス・キリストであります。主の教えに聞き、従順に主に聞き従 うとき、私たちはイエス・キリストのいのちにあずかることができるのです。 父と子と聖霊の三位一体の神とのお交わりである礼拝・・・、御前にひれ伏し、主を拝むこ とを、私たちの信仰生活の中心に位置づけたいものであります。 |