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主日礼拝 「旅する神の民」 2022年3月27日

 廣坂洋行伝道師
民数記 9章15節~23節
I. 私たちは旅の途中
 主イエス・キリストの救いに与り、神の子どもたちとされた教会は、二つの時の間
を生きている。 十字架と復活において主イエスが救いのみわざを成し遂げられた時
と、私たちにもたらされた救いのみわざが完成し、天と地、地の下にあるものの
すべてが主の御名をほめたたえる時。 二つの時の間を教会は今生きている。
罪の身代わりとして主イエスが十字架におかかりになり、死を打ち破り復活なさった
ので、私たちの救いのみわざは「すでに」成し遂げられた。 けれども、私たちに確
かにもたらされた救いのみわざは、 「いまだ」完成していない。 完成するその時、
やがて福音がすべての民族に宣べ伝えられ、すべての造られたものが主を賛美する。
二つの時の間、「すでに」と「いまだ」の間を、教会は一足ひとあし着実に進んで
いく。
 二つの時の間を、教会はどのように進んでいくのであろうか。 二つの時の間(そ
れは「世の終わり」とも呼ばれる)に臨む教会への教訓と励ましのために、使徒パウ
ロは民数記に記された神の民イスラエルの荒野の旅の歩みを語って聞かせる(コリ
ント人への手紙 第一10章1-13節)。
 イスラエルの子らも二つの時の間を歩んで行った。 エジプトの地で苦役を負わさ
れていたイスラエルの民を、主は救い出される。海を二つにわけて進ませる、力強く
確かなみわざがなされた。 また主はイスラエルの民と契約を結び、律法を与え、ご
自分の民とされた。イスラエルは奴隷の民ではなくなり、神の自由の民とされたので
ある。 けれども、イスラエルはエジプトを出た後、すぐに神の約束の地に入れられ
たのではなかった。 彼らは、40年間、荒野を旅することとなる。ヘブル語聖書で
は「荒野にて」と名付けられる民数記は、荒野での神の民イスラエルの葛藤を描き出
している。

II. 「主の命により」
 イスラエルの民は、荒野の旅を苦しみながら進んで行く。 失敗も数多く経験する。
ただし、それは歯を食いしばって、己の力だけで進んでいく道ではなかった。 彼ら
には彼らの神、主ご自身がいたのである。 昼は雲の柱、夜は火の柱の中にご自身を
示される主なる神が、イスラエルの子らの手を引いて導いてゆかれた。 イスラエル
の民にとって40年の荒野の旅は、目には見えないが確かに共におられる主への
信仰を育むための大切な旅であった。 それはエジプトから確かに救い出してくださ
った神のみわざを、他人事としてではなく、自らのこととして受け止め直し、大人と
なるよう成長していく旅ともなった。  
 小さな子どもがすくすくと成長していくためには温かい大人たちのことばかけが欠
かせない。 二人で生涯歩みぬく約束をして夫婦生活をはじめようとしているカップ
ルに必要なのは、お互いに向き合って、ゆっくりと語り合う時間だ。そして、神のも
のとされて、神との信頼関係、信仰を確かなものとするために必要なのも「ことば」
である。
民数記9章15-23節には「主の命により旅立ち、主の命により宿営し」との言葉遣い
が三度くりかえされている。 進み出すのも、立ち止まるのも、主のことばによって。
教会が進む旅の歩き方は、「主の命により」である。神のことばをさまたげる知らせ
、内なる声が響いて苦しくなることもある。 けれども、神のことばはとどめられるこ
とはない。「主の命により」と何度も繰り返されている。
何度失敗しても神はイスラエルを見捨てなかった。 神はことばを語り続ける。
「主の命」による旅がまだ続いている。

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