主日伝道礼拝 | 「道の光、聖書」 | 2022年6月19日 廣坂洋行伝道師 |
詩編 119篇105節 | ||
主日伝道礼拝では「信仰の道」というシリーズで、聖書のことばに聞いている。 私たちは人生の旅を一人孤独に進むのではなく、「わたしはあなたとともにいる。 わたしがあなたの神だから」と語り、共に歩まれる神と共に一歩一歩進んでいく(イザ ヤ41:10)。私たちと共に歩まれる神の語りかけを聞き取り、信仰者は詩篇119篇 105節を歌い、祈る。「あなたのみことばは 私の足のともしび/私の道の光です。」 神と共に歩むということは、神のことばを聞くということだ。神の民は、その足元を 照らす「ともしび」、行く道を導く「道の光」として、神のことばを聞いてきた。 I. 「あなた」のみことば、「私」の道の光 聖書は大昔に記されつつ、今も世界中で読み継がれている、古典中の古典であろう。 聖書には汲んでも汲んでも汲み尽くすことができないほどの無限の知恵が満ちている。 それはまさに「神のことば」だ。 しかし、聖書を読み、自分の人生の糧としようとす るときに、私たちは直面する。 無限の知恵に満ちた「神のことば」の前で、私たちは神ではなく、「人」に過ぎないと いうことに気がつかせられる。 神のことばである聖書は、私たちが完全な神ではなく、人に過ぎないということを 悟らせる。この世界の創造主で、万物の支配者である神と、はかないいのちを生きる人 に過ぎない私たちとの間には、計り知れないギャップが横たわっているのだ。 けれども、救い主である神は、私たちをお見捨てにはならない。神は、小さく弱い私 たちが神のことばで生きることができるように、みことばで育ててくださる。神が語る ようには生きられないと絶望する者たちに、「あなたは高価で尊い、わたしはあなたを 愛している」と告げる(イザヤ43:4)。 聖書はよく生きられないとうつむく者にこそ、「それでもわたしはあなたとともにい る」と告げられている神の約束のことばだ。神のことばは結婚式で新郎新婦がかわす誓 約のことばのようでもある。事実、聖書は「旧約聖書」「新約聖書」と呼ばれてきた、 神が神の民と結ばれた「契約の書」なのである。それゆえ、詩人は「あなたのみことば は私の足のともしび/私の道の光です」と、神と人との関係を「汝と我(あなたと私)」 の関係で捉え、賛美の歌をうたう。 II. 成就・成就する神のみことば 神と私たちとの契約の書である聖書には、私たちと契約を結ばれた神が、何があろう とも私たちを愛し抜くと約束されたと記されている。そして、私たち人間がそのような 神の契約にふさわしくないにもかかわらず、神はご自身の誠実さゆえに、契約を果たさ れたと明らかにされている。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16) 神は、大切なひとり子を与えるほどに、私たちを愛された。私たちに与えられた神のひ とり子は、暗い私たちの足元を光照らしてくださった。まことの神のことば、主イエス ・キリスト、このお方は「世の光」であった(ヨハネ8:12)。このお方は、私たちの身代 わりとして十字架におかかりになり、三日目に復活なさった。主なる神は、私たちの 死の暗闇すらも、そのみことばの光で照らしてくださる。 死の暗闇すらもご自身の光で照らす主イエス・キリストは、私たちの手を引いて、 もっと先へと進ませてくださる。栄光の光り輝く天の御国へと私たちを導く。神がその ひとり子をお与えになったのは、「それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。道に迷い、暗闇が足元に迫る時、聖書 に記された神のことばを聞こう。「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエス に対する信仰による救いを受けさせることができます。」(Ⅱテモテ3:15) |