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平和祈念礼拝 「この町の平安のために」 2022年8月14日

 廣坂洋行伝道師
エレミヤ書29章1~7節
 I. ただ神にのみ祈る
 「平和をつくる者は幸いです」と語られる主が、平和を求める私たちの両手に与えたのは剣でも槍で
もなかった(マタイ5:9; イザヤ2:4)。主が平和をつくるために、私たちにお求めになったのは、その
両手を組んで、頭を垂れて、平和の神に祈る、「祈り」であった。 閉じ切った部屋でびくびくと怯えて
いた弟子たちに、主イエスは「平安があなたがたにあるように」と語られた(ヨハネ20:19)。 主の平
安をいただいて、弟子たちは心を一つにして祈り出すこととなる。 その弟子たちに聖霊が降ったとき、
弟子たちはその祈りの部屋にいた(使徒1:12-14; 2:1-4)。
 戦いに敗れ、祖国を追われ、捕囚民として、異国バビロンの地に連行されていった者たちに、エレミ
ヤを通して神が命じられたことは、その町の平和のために祈るようにということであった。 信仰者の祈
りから平和が始まるということを神は約束しておられる。
 日本の教会は残念ながら平和のために祈るということにおいて、苦い挫折を味わってきた。1945
年8月15日に終戦(敗戦)した戦争、日本の教会は、ただ神にだけ祈るのではなく、神社を参拝し、
礼拝に国民儀礼を組み込み、唯一の神以外のものに拝み祈る日々を過ごした。 こう指摘するのは、戦時
下を歩んだ信仰者たちが弱かったと言いたいわけではない。 むしろ、宣教者である私の方が弱く、
信仰の戦いを戦い抜けるだろうかと不安になる。 だからこそ、歴史を思い返し、聖霊の励ましを受け、
ただ神にのみ祈る信仰を新たにさせていただかなくてはならない。私たちを平和に導くのは、ただ神の
みである。平和をつくる者として、まず求められているのは、その唯一の主にのみ祈ることにほかなら
ない。

II. 平安にいたる祈り
 異国バビロンに連行されていった捕囚民に語られた、「その町に住み、その町の平和のために祈れ」
という神のメッセージは強烈であった。 ある者にとっては自分の財産を奪った者たちがいる場所で
あった。ある者にとってはその町には家族を殺した者が住んでいた場所であった。そしてこのメッセー
ジを受け取っただれもが皆、自分の故郷から引き剥がされるようにその町に連れてこられたのであっ
た。それなのに、故郷の平和のためではなく、連れてこられたその町の平和のために祈れと主は言わ
れる。ただ、そのように語る神は、祈る者たちに「平安を与える計画」を用意していると約束される
(エレミヤ29:11)。
 この神のメッセージを確かに実行した預言者がいた。この手紙が送られた時から少し進んだ時、同
じく異国で外国の王に仕えた預言者ダニエルである。彼は異国に住み、その町の平安のために尽くし
た人物であった。それはその町の者たちが嫉妬するほどによく仕えた。 ただダニエルはなによりも
唯一の神に祈ることをやめることはなかった。神に祈れば迫害されるときでさえ、ダニエルは「いつも
のように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」。ダニエルはその神への祈りの
ゆえに、訴えられ、獅子の穴に投げ込まれることとなる。 けれども、平和の神は獅子の口をふさぎ、
彼を守り、平安を与えられた。異国の王ダレイオスはこの平和の神を褒め称えずにはいられなかった
(ダニエル6:25)。
 主イエス・キリストも、その弟子たちも、祈りによって平和を実現した者たちであった。主イエスは
血の汗を流しつつ祈り、十字架の道を進んで行かれた。その十字架が私たちに平和をもたらした。
怯えて部屋に閉じこもっていた弟子たちは、やがて平安のうちに祈り、世界へ平和の神を告げ知らせる
こととなった。そうして生まれた教会は、奴隷も自由人も、女も男も、ユダヤ人もギリシャ人も共に
キリストの名によって集う一つの群れとなった。私たちの平和づくりは唯一の神への「祈り」から
始まる。

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