主日伝道礼拝 | 「いのちの道」 | 2022年9月18日 廣坂洋行伝道師 |
詩編16編8~11節 | ||
I. 死の陰の谷を歩む人〜ダビデの生涯 教会では聖書が朗読され、そして聖書のことばが説教される(当教会においては「宣教」と呼んで いる)。 詩篇16篇は、使徒ペテロと使徒パウロ、どちらも共に最初に語った説教のテキストであっ た(使徒2:25-28; 13:35)。 聖書は古文書だが、死せる文字ではない。 聖書は生ける神のことば であり、私たちを生かすいのちのことばである。 使徒ペテロも使徒パウロも、詩篇16篇からいのち を語った。 この詩篇16篇を歌ったダビデ王自身は死に、墓に葬られたが、この詩篇16篇はダビデの 死とともに葬りさられることはなく、信仰者の間で歌い継がれ、さらに死んだはずのダビデの信仰が 死で終わりではないということを証ししつづけた。 ダビデは死の陰の谷を歩んだような人物であった。 大男ゴリアテとの決闘を皮切りに、死と隣り 合わせの生涯をダビデは生きた。ゴリアテに勝利したことは、ダビデをイスラエルの国のスターダム へと押し上げた。 けれども、それはさらなる「巨人」を呼び起こすこととなってしまう。 大男ゴリ アテよりも強大な、イスラエル王国、初代の王サウルの「ねたみ」である。 「サウルは千を討ち、 ダビデは万を討った」と無邪気に歌う民草の光景を、サウルは苦々しく見ていた。 やがて、サウル はダビデを荒野までも追いまくり、ダビデはまさに死の陰の谷を歩むこととなる。 ダビデに形勢逆転のチャンスが訪れる。 洞穴の奥で潜んでいたそのところに、サウル王が何も 知らずに休みにきたのである。 ダビデにしてみれば、サウル王を討ち取る絶好の機会であった。 けれども、ダビデは神が立てた王、主が油注がれた方を手にかけることはできないと、みすみすその 絶好の機会を逃してしまう。 ただし、そのようなダビデの「主を前にする」道のりは、死の暗闇で 染まることなく、いのちの光に照らされることとなる。 II. いのちの道を行く 死と隣り合わせの生涯を生きたダビデは、自分のいのちが狙われるだけではなく、自らの部下の 妻を奪い、さらにはその部下を殺害するという大失態を犯し、人のいのちを脅かしたこともあった。 また、その罪ゆえに自分の子を失うという悲しみにも直面する。 さらに、別の我が子にいのち狙わ れ、年老いてから都落ちをする苦悩も味わった。 けれども、ダビデは自らのうちにある死の暗闇に 沈み込むのではなく、神のいのちの光を見上げて歩んだ。 神はダビデにみことばを語り、ダビデに 約束をした。 「神がダビデの王国を永遠のものとする」(Ⅱサムエル7:8-16)。 その後、ダビデ 自身も歳を重ね、いのちを落とし、墓に葬られることとなった。 けれども、神はその死で終わらせ ることはなかった。 神はダビデに約束したとおりのことをなさったのである。ダビデの子孫であるイエス・キリストを よみがえらせたのである。 そのイエス・キリストの復活は、彼を信じるすべてのものをもともによ みがえらせる「初穂」であった。 だからこそ、ダビデはすでに死んだのであるが、ただ死んで終わり でなかった。 詩篇16篇で喜び歌うようないのちをダビデは確かに生きた。 今もなお復活の希望の中 で眠っているのである。 死を打ち破り、復活なさったイエス・キリストを自分の救い主として信じ、 受け入れる者は、いのちの道を歩むことができる。そのいのちの道は、たとえ死の陰の谷を歩むよう な日々が目の前に広がるように見えようとも、いのちの主はそれをいのちの日々へと変える。 ダビデの歩んだいのちの道は、私たちに「復活」という希望の確かさを教え励ます。 ともに主が与えてくださる「いのちの道」を行こう。 |