主日伝道礼拝 | 「自由への旅路」 | 2022年10月16日 廣坂洋行伝道師 |
イザヤ書43章16~21節 | ||
この世界を創造し、私たちを罪から救い出し、この世界と私たちの救いを完成なさる主は、私たちの 手をとって「自由への旅路」へと導かれる。神は私たちを縛るすべての罪から私たちを解放し、自由 な者としてくださり、そして私たちを強いられてではなく、いやいやながらでもない、自由に愛する 者へと作り変えてくださる。 I. 束縛からの自由 旧約聖書に記された神の救いのみわざとして重要なものとして「出エジプト」と「バビロン捕囚」 が挙げられるだろう。神の民イスラエルは、異国の奴隷となり、縛り付けられる体験を、歴史の中で繰 り返してきた。けれども、救い主なる神は、奴隷となって縛りつけられていた神の民を解放し、自由 な者とした。「出エジプト」と「バビロンからの帰還」は、神の民を自由な者とし束縛から解放した、 神の救いのみわざである。 神の民イスラエルは古代の超大国エジプトで奴隷のように扱われ、鞭打た れ、苦役を課されていた。重い労働にうめき叫ぶ声は、天にまで届くほどであった。救い主なる神は、 その嘆きを聞き、イスラエルの子らをご覧になり、彼らを心に留められた。救い主なる神はモーセを 遣わし、神の民をエジプトから救い出された。その救いのみわざのハイライトが、「紅海渡渉」であ る。脱出したイスラエルの民のすぐ後ろまでエジプト軍が追い迫ってきたのだが、神はイスラエルの民 の目の前に広がる大海を二つに分けて、乾いたところを進ませ、出エジプトを完全なものとなさった のである。海を二つに分けて、救い出された、その出来事は神の民の原体験として深く心に刻みつけ られることとなった。 神の民は、その後、神に背を向け、罪に陥り、亡国の危機に直面する。 その危機的状況において、神に立ち返れと語り続けたのが、旧約預言者であった。預言者イザヤは、 唇の汚れた民の間に住み、決して悔い改めようとしない神の民イスラエルに、それでも神のことばを 語り続けた。救い主なる神は、そのような預言者イザヤに試練と共に脱出の幻を示された。 神の民はバビロンに捕囚民として連れて行かれるが、神は民をお見捨てにならず、時が来れば必ず救 い出すという約束の幻であった。そのとき、エジプトから神の民を救い出された神、大海を二つに分け た力強い神が、超大国バビロンから神の民を贖い出すというものであった。その約束のとおりに神は イスラエルをバビロンから救い出し、帰還させた。 II. 愛することへの自由 神の民は奴隷とされ、縛り付けられる、その度ごとに、救い主なる神の力強い御手によって、その 鎖から解放され、自由な者とされてきた。けれども、さらなる力ある、「新しいこと」を救い主なる神 は成し遂げられた。「先のことに心をとめるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいこと を行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:18, 19)救い主なる神は大海を二つに分け、束縛か らの自由へと神の民を導いたが、愛することへの自由へと私たちを導かれる。神のひとり子イエス・ キリストは、イスラエルの民のように水の中へと進まれた。 そして、まことの神であるのに、しもべの姿をとって、その弟子の足を洗い、罪人のためにご自身の いのちを注ぎだされたのである。そして、まことの王でありながら、力でその民を縛り付けるのでは なく、愛で仕えるという道を示されたのである。富やいのちにしがみつくのではなく、喜んで与える道 を主なる神は歩み、私たちと共にその道を進まれる。神であるお方が私たちのために奴隷の姿をとって くださり、私たちに互いに愛し合う道を示されたのだ。 自由への旅路へと導かれる主、このお方と共に罪からの自由、また愛することへの自由へと進もう。 |