主日伝道礼拝 | 「転んでも倒れ伏すことはない」 | 2022年11月20日 廣坂洋行伝道師 |
詩編37編23~24節 | ||
11月後半となった。次週から待降節(アドベント)を迎える。教会暦は、主イエス・キリスト の誕生と再臨を待望するアドベントからスタートする。 したがって、その前の週は教会暦では 一年の最後の日曜日となる。次週から今年もクリスマスに向かう新しい時を刻み出すが、教会暦 における一年の最後の日曜日に、私たちの道の終わり、信仰の旅の終着についてみことばから 励ましを受けたい。 I. この道は絶望で終わることはない 教会において、私たちとこの世界の終わりの日についての事柄を、「終末」と呼ぶ。「世界の 終わり」、「終末」と聞くと、世紀末の覇者がやってきて、この世界のすべてが滅ぼし尽くされ る、そのような物々しい恐怖に駆り立てられる。ニュース記事を見ると、災害、疫病、経済破綻、 偽りの宗教、そして戦争の暗い知らせが並び、終末の様相を呈してきたと表現したくなる。この 世において、この世の終わり、終末は、希望とは最も遠いものであるかのようだ。 けれども、神はこの世界の終わり・終末は、絶望ではなく、希望だとお語りになる。 旧約聖 書のダニエル書や新約聖書のヨハネの黙示録を開くと、確かにそこには世の終わり・終末につい て恐ろしい事柄が並んでいるが、その先に神の救いの完成と希望の実現が伴う。 この世界の 創造主なる神にとって、世界の終わりは神の計画の悲劇的絶望的失敗として描き出されるのでは なく、確かな完成、希望に満ちた救いの計画の成就として描き出される。 さらに、確かな完成、希望に満ちた神の計画の成就としての世の終わり、終末は、非現実的な 夢物語としてではなく、たいへんなリアリズムに富んだものとして表現される。神のことばで ある聖書は「苦しみ」を直視する。完成、成就、終末に向かうその道には、苦しみがあることを 否定しない。その道で転んでしまうことがあることを正直に告白する。この道の最大の苦しみ、 いのちが失われること、「死」をまっすぐに見つめている。 私たちを救うために世に来られた 救い主イエス・キリストは、死を避けることなく、真正面からその死の苦しみを受け止めた。 十字架の死というかたちで、私たちが受けるべき罪と死の苦しみをすべて受け止めた。 II. 主によって人の歩みは確かにされる 救い主イエス・キリストは十字架で死なれた。その十字架の死は人の目からすると、呪われた 十字架、貧しい民を救い損ねた革命家の失敗、無残な終わりに見える。けれども神はそのイエス ・キリストの十字架の死を、救いのわざの完成とされた。神のひとり子イエス・キリストは、 十字架上で最後、「完了した」と語り、息絶えた(ヨハネ19:30)。 そして、その救い主の死は死で終わることなく、その先にあるいのちの輝きへと進んでいく。 十字架で死なれた救い主イエス・キリストは、その三日目によみがえり、その後四十日して弟子 たちの目の前で天に挙げられ、今も生きておられるのである。人の目には絶望的に見えた救い 主の死は、主によって確かなものとされた。まことの神であるイエス・キリストは、私たちを 救うために世にこられた「まことの人」である。 イエス・キリスト、このお方は私たちの罪をすべて背負い、私たちと共によみがえり、新しい いのち、永遠のいのちを生きるために、十字架で死なれた。 転倒してしまう私たちの道も、 「主によって人の歩みは確かにされる」。このお方にあって死は、絶望の終わりではなく、その 先にある希望のはじまり、新しい永遠のいのちへの一里塚となる。救いの神、イエス・キリスト を信じ、このお方と共に、主が確かなものとされる、主が喜んでくださる、この道を行こう。 |