主日礼拝 | 「神の広き世界、主の広き心」 | 2023年1月1日 廣坂洋行伝道師 |
マルコの福音書 9章36-42節 | ||
1. 近すぎて見えない 主イエス・キリストは、弟子たちを「ご自分のそばに置いて」、養い育てるために、12人を選び、 その12人の弟子たちと寝食をともにし、旅の道を進んでゆかれた。使徒と呼ばれる12人は、主イエス に選ばれた誇りと、文字通り御側近くで主と過ごせる喜びをもって、主とともに歩む喜びの日々を過 ごした。 神を近くに感じ、神の御側近くで生きるということは私たちの心の願いである。けれども、近すぎ て見えなくなってしまうということがある。主を近くに感じるからこそ、神のみこころと自分の願い の区別がつかなくなってしまい、自分の思いこみにすぎないことを神の聖なるみこころだと勘違いし、 結局自分勝手になってしまうということもある。 主イエスの御側近くに置かれた12人の弟子たちは、近いからこそ、見誤った主イエスのみこころが あったようである。朗読された福音書の記事は、弟子たちの失敗談が続く、弟子たちは小さな一人の 子どもを受け入れる御子と御父の御思いが分からなかった。また続く箇所で、12人の弟子の中でも とりわけ主イエスと御側近くすごした3人の弟子の一人、ヨハネの失敗が記されている。 主イエスの御名には力があり、弟子たちはその御名の権威によって奇跡をしていたのであるが、弟 子ではない、どこのだれかもしれない者が、勝手に御名を使って、奇跡をしたので、やめさせようと したというのである。ヨハネは主イエスの御側近くいた弟子の一人として正しいことをしたと思って いたが、ここでの主イエスの御思いはヨハネの思いとは異なっていた。 神を信じ、神と近く生きるからこそ、近すぎて、自分の思いを神のみこころと勘違いしてしまうこ とがある。それは視野が狭くなり、近視眼になっていると言える。ヨハネはここで「敵vs味方マイン ド」に落ち込んでいたとも言えるだろう。そして自分は正しい方にいるという観点からものごとをさ ばきはじめていた。ヨハネは世界を小さくし、心を狭くしていた。 2. 神の広き世界を生きよう 主イエスは弟子たちに、広く豊かな神の国を見せ、その広き世界に生かし、弟子たちを通してその 世界を全世界に広げようとしておられた。主イエスはご自分の広き心を弟子たちに授けるために、ご 自分の御そば近くに弟子たちを置いた。小さい者たち、一人の子どもも受け入れられるのが神の国 である。主イエスは正しいのは自分だけという弟子たちの狭い心を押し広げ、キリストに属する者だ ということで、水一杯を飲ませる者に、キリストに属する者を通して神の恵みを報いとして与えよう としておられる。主は私たちを通して、この世界に神の国の福音を広げようとしておられる。 確かにこの世界は厳しく、信仰をもって主とともに歩むことは簡単なことではない。本聖書箇所は キリストの「名」というフレーズが多用されている箇所であるが、主イエスご自身、「わたしの名の ゆえに迫害を受ける」ことを私たちにはっきりと伝えておられる。そのような日々、自分の信仰を保 つためにも、正論にすがりたくなることがある。けれども、主イエスはこの世界には、どんなに小さ くとも主イエスに従おうとする者があることを知らせる。また、一見信仰をもっていないように見え ても、水一杯飲ませてくれるような関わりの中に、自分たちの信仰の歩みを肯定的に見ている者、 キリストの仲間がいることを告げてもおられる。新年を迎えた。新しく心が広がる日でもあろう。 この一年、主が私たちに見せてくださる世界は、自分しかいないような、決して小さな世界ではない。 主が私たちに与えてくださる心は広き心である。広き心で、神の広き世界を生きよう。 |