主日伝道礼拝 | 「まことの神にして、まことの人」 | 2023年10月15日 廣坂 洋行 伝道師 |
マルコの福音書4章35節~41節 | ||
教会で礼拝する救い主イエス・キリストは、「まことの神にして、まことの人」なるお方 である。 このお方は天地を 造られたまことの神のひとり子であり、私たちのもとへこられ たまことの人である。 この「まことの神にして、まことの人」 なるイエス・キリストこそ、 私たちを救い出すことがおできになる。 1. まことの神なるイエス・キリスト 嵐を静めるこの主イエスはまことの神である。 天地の被造物が、このお方に首を垂れ、 伏する。 聖書が言うまことの神は、奇跡を行うことができる超人とは次元が異なる。 確かにここで主イエスは誰もが驚くような奇跡をおこなっているのであるが、厳密な一神 教のユダヤ教の文化では人を神とはしないし、平伏し礼拝することなどあり得ない。 けれども、イエス・キリストはまことの神として礼拝されてきた。 それは、イエ ス・キリストが旧約聖書であがめられる唯一まことの神と重なるお方だから である。 弟子たちは嵐を静めるイ エス・キリストを非常に恐れて「風や湖までが言うこと を 聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか」と言っている。 旧約聖書には天地を創造したまことの神が荒れ狂う海を静めるという記事がいくつかある (ヨブ記 38 章8-11節、詩篇107篇23–32節など)。嵐を静めたイエス・キリストを恐れ た弟子たちは、このお方に旧 約聖書に描かれたまことの神を見たのである。 嵐を静めるイエス・キリストは天地を創造した神の権威を帯び ておられた。 2. まことの人なるイエス・キリスト けれどもまことの神であるイエス・キリストは、本聖書箇所において、まぎれもない人で ある。「さて、その日、夕方になって」とあり、「ところがイエスは、船尾で枕して眠って おられた」とある。その日、主イエスは一日魂をこめて、群衆たちに神の国の福音を語り つくしておられた。 さまざまなたとえ話を語っておられた。 一日の営みを終えて、疲れ を覚えて、眠ってしまわれたのである。 天地を統べ治めるまことの神は、私たち人と同じ 姿をとられたのである。 それは私たちと同じように、一日の働きの後に疲れを覚えて、枕 して眠るほどである。 けれども、このお方は私たちと同じ人であるが、まことの人である。 嵐の中で平安を覚えて休まれる、まことの人である。 神は人をご自分のみそばで平安を得 る者として描きだされた。 創世記を読むと、人の創造のすぐ後に、休まれる神のお姿が 描き出される。 休むというのは人の本来的な姿である。 船尾で枕する主イエスのお姿に は、まことの人としての姿が描きだされる。 3. イエス・キリストこそ我らの救い主 キリスト教信仰の真髄をまとめた『ハイデルベルク信仰 問答』(16 世紀)は、私たち が求めるべき救い主は「まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストである」 と力強く記している(第15-17問)。それは救いを求めるのは他でもない私たち、まこと の人であり、同時に人は自分自身で自らを救うことができず、まことの神の力が必要だか らである。「カミ」のようになったものは世界に溢れているが、私たちを救うために人と なられた「神」 は主イエス・キリストただお一人である。 このお方は弟子たちの舟にお 乗りになった。 昔からこの嵐の中の舟は教会とみなされて読まれて来た。 嵐の中を揺れ る舟のように教会は小さく揺れて来たのである。 けれども、その舟に私たちのまことの 救い主である、まことの神にして、まことの人であるイエスさまがお乗りである。 私たちを救うために、主は私たちと共におられるのである。このお方に信頼して、嵐の中 を進んでゆこう。 |