主日礼拝 |
「心の貧しい者」 | 2024年5月12日 井上 慎治 牧師 |
マタイの福音書5章1節~3節 | ||
文脈について 大勢の群衆 (4:23-25) を見て、イエスは山に登り腰を下ろして、そばに来た弟子たちに 教え始めました。「山上の垂訓」(5:3-7:27) は、旧約聖書のレビ記や十戒よりも遥かに厳し い教えと戒めであり、言わば「究極の律法」です。人が、厳しい山上の垂訓に真摯に向き合 うならば、聖なる神の完全さ、神の基準の前に、自分の義の脆さと自分の汚れを知り、自分 自身に失望せざるを得ません。そうなってやっと、罪を赦し、たましいを救うお方であるキリ ストに本当の意味で目が開かれます。山上の垂訓は、八つの「~者は幸いです」(3-10 節) という「至福の教え」で始まります。「天の御国の住人とはこのような人のことである」という 教えです。 「心」あるいは「霊」とは 「心の貧しい者」を原語のギリシャ語に忠実に訳すと、「霊の貧しい者」になります。聖書に は「霊」「心」「たましい」という人の内面的な部分を指すことばがいくつか登場し、意味が重 なっている部分があります。新改訳聖書が「心」と訳しているのも、このような理解に立ってい るからでしょうか。 人間は、元は土のちりから形造られました。人間とはただの土のかた まりに過ぎないのですが、そこに創造者である神が「いのちの息」を吹き込んだことで、人間 は生ける存在となりました (創世記 2:7)。土のちりから造られているすべての人間は、死後、 再びちりとなって地に帰り、その肉体は消え去り、しかし霊だけはこれを与えた神に帰ります (伝道者の書 12:7)。創造のときに「いのちの息」が吹き込まれたというのは、「霊」が与え られたということを意味しています。そして、人が死んで肉体が滅んでも、「霊」だけは永遠に 残り、神に帰る、すなわち神のさばきの座に立たされるということです。人間は死んだら終わ りではなく、「霊」の状態が死後の運命を決定づけるわけですから、生きているうちに自分の 「霊」あるいは「心」を主なる神の前に整えて、死後の運命に備えることが非常に重要という ことになります 「霊の貧しさ」とは 「心 (原語:霊) の貧しい者」とは、物質的、経済的に貧しい人のことではありません。「霊 の貧しさ」とは、神の前に何も持っていないこと、霊的に乞食であるということです。それゆえ に、神の恵みにすがりつくほかありません。それは言い換えれば、「謙遜さ」であり、「人の霊 がへりくだった状態」です (イザヤ書 57:15; 箴言 29:23)。 神に高ぶりを破壊され、謙遜に させられ、神を恐れ、ただ神のあわれみだけにすがる「霊の貧しい者」が、天の御国で神ととも に生きる最上の幸いを自分のものにします (詩篇 51:17; イザヤ書 66:2)。 私たちのキリストへの信頼は、この聖書が語る「心 (霊) の貧しさ」に裏打ちされたもの でしょうか。 問われます。 |