主日礼拝 |
「 悲しむ者 」 | 2024年5月26日 井上 慎治 牧師 |
マタイの福音書5章4節 | ||
「人生、悲しいこともあれば喜ばしいこともある」というのは人生の表面的な部分です。 聖書は、人間が人間であるだけで拭い去ることのできない根源的な悲しみがあると教えて います。 人間の根源的な悲しみとは、堕落の結果、人間の日の下におけるわざ、つまり 人生が空しいものになったという事実ゆえの悲しみです (創世記 3:17-19)。 伝道者の書では、この堕落ゆえの人生の空しさについて冷静に観察されています。 若さも、青春も、健康も、財産も、業績も、快楽も、日の下で起こることはすべて永遠で はなく空しいものであり、自分自身もまた死を待つばかりの空しい存在であるという厳し く絶望的な事実を、神のことばである聖書が語っています (伝道者の書1:9-11; 2:10-11; 3:12-13;11:8, 10)。 ただ、その中にあって空しくないもの、永遠のものがあります。それが人の「心/霊」 です (伝道者の書 3:11; 12:7)。 イエスの言う、慰められる「悲しむ者」とは、罪の結果 としての空しさに喘ぎ悲しむ人々のことですが、私たちの肉体が死んでちりに帰った後も 消えない「心/霊」が慰められる時が来るのです。 それは空しい今の世ではなく、新しい 世においてです (ヨハネの黙示録 21:1-4)。 慰めを予告するイエスは、それを理由にして、今この瞬間に人生の空しさに悲しんでい るという事実を否定することはしません。 イエスご自身も、友人であるラザロが死んだ時、 人の空しさに心を痛め、友の死に涙を流して悲しみました (ヨハネ 11:35)。 自分の悲し みについて、正論めいたことで否定したり、あるいはこの世の快楽によって慰めを得てし まっていたりする人には、イエスが予告する究極の慰めの希望は必要ありません。すでに 慰めを得てしまっているからです。 悲しむべき人生の空しさを真っ直ぐに悲しむことが、 私たちの根源的な悲しみを認めることにつながります。 その悲しみが、私たちを、神への 恐れとイエス・キリストへの信頼、後の世における究極であり永遠である慰めに向かわせ るのです。 罪赦されキリスト者となったとしても、今この人生の空しさが変わるわけではありませ ん。相変わらず死とともにすべて失うのであって、空しいままです。 人間であるがゆえに 捨てることのできない悲しみは、生きている限り消えません。 本当の信仰者とは、この人生の空しさをうやむやにしたり、そこから逃げたりすることな く受け止めて、まっすぐに「悲しい」と感じられる人、憂いている人ではないでしょうか。 だからこそ、後の世、天の御国への希望とそこにある慰めの素晴らしさがよく分かるの ではないでしょうか。 |