主日礼拝 |
「 柔和な者 」 | 2024年6月2日 井上 慎治 牧師 |
マタイの福音書5章5節 | ||
「柔和」とはどういう意味でしょうか。日本語の辞書的な意味で言えば、「性格や性質など が穏やかなさま」「性質や態度が、ものやわらかであるさま」となります。 聖書で「柔和」と 訳されるのは、ヘブライ語「アーナーヴ」とギリシャ語「プラウース」です。 「アーナーヴ」 は、敵に虐げられ、悪しき者に食い物にされるような状況に置かれている人々を指して使われ ることが多いことばです。 「プラウース」は、ほとんどの場合、敵に虐げられ、反対された人であるイエス・キリストを 指します。イエス・キリストもまた、敵に虐げられ、反対された人でした。 「柔和」と訳され る聖書の二つのことばには、敵対する勢力や悪しき者の存在が想定されているということ です。 したがって、聖書の教える「柔和な者」とは、「敵や悪しき者からの反対、攻撃、圧力に晒 されているとしても、神に信頼しているがゆえに、自分のことで主張したり争ったり抵抗した りしない人」であり、そのような意味で「穏やかな人」「ものやわらかな人」です。 この「柔和な者」の例として、族長イサク、モーセ、イエス・キリストを挙げます。 イサク 青年時代のモリヤ山上の出来事を通して、イサクはこの世への期待と望みを捨てて いました(創世記 22 章)。 イサクはその従順ゆえに繁栄しますが、ペリシテ人の妬みを買い、 父アブラハムの井戸をすべて埋められ、掘り返しても所有権を主張されるという嫌がらせを 受けます。 しかしイサクは、自分の権利を脅かす人々と言い争わず、受け入れ、井戸を掘り返し続け たのです(創世記 26:12-18)。 永遠の神への信頼が、イサクの柔和さの根底にあります。 モーセ 若い頃は義侠心に厚い人でしたが、同胞からの拒絶、異国への逃亡、結婚などを 経て、80歳になって神に召された時にはまったく自力を砕かれていました。とはいえ、無気力 人間かといえばそうでなく、自力を砕かれていたからこそ、主に命じられたならば疑うことな く従い、言われた通りに実行する人でもありました (出 40:16; レビ 8:4; 16:34; 民 3:16, 42; 17:11; 20:9, 27 など)。そんなモーセは、導くイスラエルの民がたびたび不平不満を吐 いても、姉のミリアムと兄のアロンから嫉妬の故に非難されても、言い争うことはしない柔和 な人でした (民数記 12:1-13)。 それはイサク同様、神への信頼のゆえです。 イエス・キリスト 「わたしは心が柔和でへりくだっている」(マタイ 11:29) とご自分で言わ れる通り、自分のために争わない方でした (ペテロ第一 2:22-24)。 この世では、己の欲の ために争う人が多くを得るばかりですが、それは神を恐れない悪しき者ではないでしょうか。 イサクやモーセの柔和さ、キリストの十字架の道は理解できません。 苦しみの中でこの世へ の期待を砕かれた人は、永遠の神への信頼ゆえに、神のことばに服従し、この世にあって我欲 の達成のために他者と争わない柔和な者です。 信頼、服従、柔和。この道を生きる人は、この世にあっては愚か者、負け犬かもしれません。 しかし永遠の視点から見れば、「地」、すなわちあらゆる悪が一掃された新しい世界を自分 のものとして受け継ぐという圧倒的勝利者となるがゆえに、幸いなのです。 イサクとモーセという信仰の先達に倣い、キリストの御姿を仰ぎながら、柔和な者が受ける この幸いを目指していきましょう。 |