主日礼拝 |
「 義に飢え渇く者 」 | 2024年6月9日 井上 慎治 牧師 |
マタイの福音書5章6節 | ||
「義に飢え渇く者」とは、「神の義に届き得ない罪人だと心底納得し、神の義に飢え渇く人」 のことです。 神の義と堕落した人間 神だけが物事の善悪や正邪とをさばくことができる審判者です (詩篇 7:9, 11)。 それに対し て人間は、堕落以降、神から隠れ、神のように善悪の判断を含めたすべてを自分で選び取る、 高ぶりを帯びた悪しき存在になりました (創世記 3:8, 22)。 神が律法を与えた目的 神は堕落した人間を神の義に導くために、「神の義の基準」である律法を与えました。 人が 律法と格闘するなら、律法を守れないことを突きつけられ、砕かれ、神の義に届き得ない罪人 だと心底納得することができます(ローマ 3:20)。 そうなるからこそ、神の義への飢え渇きが生 まれ、神のあわれみを乞えるようになります。このような砕かれた心の状態こそ「信仰」であり、 この信仰を持つ人が「義に飢え渇く者」です (ローマ 10:4; ガラテヤ 3:24)。 旧約のイスラエルと新約のパリサイ人・律法学者は、この律法の目的を全うすることができま せんでした (ローマ 9:31-32; Ⅰ列王記 22:43; ルカ 23:34)。 義に飢え渇く者が、義と認められる イエスの『パリサイ人と取税人のたとえ話 (ルカ 18:9-14)』。 祈るために神殿にやって来た パリサイ人と取税人ですが、パリサイ人は心の中で取税人を見下し、自分の正しい行いを誇り ます。 他方、取税人は「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて」、罪 人の私をあわれんでくださいと祈ります。 取税人は、自分が神の義からかけ離れた罪人であり 神に到底受け入れられるような者ではないことに心底納得していました。 神に義と認められた のは、他者との比較や自分の行いによって自分のことを義とみなしていたパリサイ人ではなく、 砕かれ、神の義に飢え渇いていた取税人の方でした。 キリストの十字架を信じるというのは、キリスト教の一連の教義を理解して受け入れること以 上に、心の状態の問題です。 神から隠れ、自分が神のようになっていないでしょうか。 生ける 神のことばに向き合うどころか、都合の良いように選り好みしたり歪曲したりしていないでしょう か。 自分の理屈や行いや熱心さによって、自らを正しいものとし、満足してしまっていないでし ょうか。 生ける神のことばだけが、神の目に映る真実な自分自身の姿、罪人であることに気づ かせてくれます。 みことばに真摯に向き合うことは、痛みであり、恥です。 しかし、飢え渇くことがなければ、満ち足りることもありません。みことばに刺される痛みと 恥を通るからこそ、同じくみことばが指し示す「キリストがそんな私の代わりに十字架にかかって どうしようもない私の罪の責任を代わりに取ってくださった」という福音のありがたさが分かるの です。 この幸いに、生きていきましょう。 |