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「あわれみ深い者」 2024年6月23日

井上 慎治 牧師
マタイの福音書5章7節

 「あわれみ深い」「あわれみを受ける」と訳される語は、ギリシャ語「エレオス」から派生し
たことばで、「他者に同情し思いやること」「具体的な助けを施すこと」などを意味します。
「あわれみ深い者の幸い」について、特に「赦し」との関連で考えます。

罪の赦しは神のあわれみ  
 エレオスは、旧約聖書において主の「恵み」を意味するヘブライ語へセドに対応します。
神の恵みによる救いは、まさにあわれみです (出エジプト 34:6−7)。人間は、罪に陥り神を冒
涜したことを償うことができません。神の怒りの下にさばかれ、責任をとって滅びるだけです。
しかし神は、罪人をあわれみ、キリストに代わりに償わせました。それで神の怒りがなだめら
れたのです。キリストに信頼するなら、罪と背きを赦され、その責任を帳消しにされ、神の怒り
を免れ救われます (エペソ 2:3−5)。このことを踏まえると、キリスト者にとってのあわれみは
「神が罪背きを赦してくださったように、他者が自分に行った悪や与えた損害を赦すこと」をも
意味しています。

あわれみ深い者があわれみを受ける  
 「神にあわれまたから、他者をあわれむ」のですが、あわれみ深い者はあわれみを受け、
あわれみを示さない者にはあわれみのないさばきが下されるともあります (マタイ 5:7; 6:14
6:15; ヤコブ 2:13)。 鍵は、「砕かれた心」です。

救いは高ぶりからの解放  
 「義に飢え渇く者」とは、人の正しさの基準や行いで義となろうとする人ではなく、神のあわ
れみを乞うた取税人のように (ルカ 18:13−14)、高ぶりを砕かれ、神の義に及び得ないちりの
ような罪人だと納得し、神にあわれみを乞う人のことです。へりくだった心の状態 (=信仰) の
ゆえに、神に義と認められるのです。それをあわれみと赦しに沿って言い換えると、高ぶりを
砕かれ、自分が神に赦され得ない罪人だと納得し、キリストの十字架にすがる者は、へりくだ
った心のゆえに、神のあわれみを受け罪の赦しに与る、ということです (詩篇4:18;147:3)。
 救いとは、高ぶりからの解放でもあります。高ぶりから解放され、神のあわれみを受けた人
は、人から受ける悪や損害のすべてをあわれみ赦すことができるようになったのです。 同時
に、他者をあわれみ赦せるほどに心砕かれている人は、神のあわれみを受け赦されるものなの
です。表裏一体です。 キリストを信じた、つまり心砕かれたならば、そういう者になったので
す。

 人をあわれみ赦すことができない人は悲惨です。本当の意味で神のあわれみと赦しを体験
できていないからです。 高ぶりから解放され、怒りや恨みを手放し、他者を赦すことができた
とき、私たちは本当の意味で神にあわれまれ赦されている幸いを、知ることができます。

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