「心のきよい者」 | 井上 慎治 牧師 | |
マタイの福音書5章8節 | ||
心の清らかさ 「きよい (ギリシャ語:カサロス)」がどのような意味でのきよさを指すかは、文脈によって 様々です。 ここでは、「その人たちは神を見る」と言われる通り、目、視覚に関わることです から、旧約聖書において「透明性」を表すヘブライ語「バル」に相当する意味として使用され ていると考えられます。 したがって、ここでの「心のきよい者」とは、「その心が清らかで澄 んで透き通っているがゆえに、遮るものなく神を見ることができる人」のことです。 「バル」は、旧約に数回だけ登場する語ですが、「レバブ (心)」と結びついた表現が、詩篇 73篇1節に見られます。 詩篇 73 篇 詩人が悪しき者の繁栄をねたみ、神信頼から逸れそうになりますが、「神の聖所に入る」と いう特別な取り扱いの中で、神が悪しき者に用意する滅びの運命を悟り、ねたみゆえに獣の ようになっていた自分の右の手を神が握って離さなかったことを省みながら、不動の岩である 神の近くにいることだけが希望だと告白して終わる、教訓的な詩篇です。 詩人の心は、悪しき 者へのねたみによってかき乱されてにごっていて、神の真実が見えなくなっていました。 しかし神の取り扱いによって、詩人の心は神の前に澄み切った清らかな状態となりました。 神の前に、底まで澄んでいてよく見える。それゆえに、神の真実を遮るもの無く受け取り、神 を見ることができる。それが、この詩の冒頭で言われている「心の清らかな人」であり、そし てイエスが幸いだと言った「心のきよい者」です。私たちの心は、苦しみ、失敗、挫折、争い、 理不尽などに直面したとき、ねたみ、怒り、悲しみなどで簡単ににごり、神の真実が分からな くなってしまうような心です。「神はおられるのか、見ておられるのか」と疑い、平安を失っ てしまうこと、神への信頼から挫折すること、それはキリスト者にとっては唯一の希望を失う に等しいことですから、苦痛としか言いようがありません。 しかし、それでも諦めず、腐らず、神のみこころは何かと問い続け、探し続けましょう。 憐れみ深く、真実で、変わることがない神は、73 篇の詩人に対してそうであったように、 私たちの右の手を握って離さないお方です。 私たちが「それでも」と尋ね求めていくならば、私たちの心を、神を見ることができる、清ら かな心へと必ず変えてくださるのです。神から清らかな心をいただいて、神を見つめて、歩ん でいきましょう。 それがキリスト者にとって、この世にあって相応しい生き方ではないでしょうか。 |