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「義のために迫害されている者」 井上 慎治 牧師
マタイの福音書5章10節
「義のために迫害されている者」とは、「神に義と認められたその信仰のゆえに、この世にあって
不当な攻撃・抑圧を受ける人」のことです。

義のゆえの迫害と罪ゆえのわざわいは別物 
 信仰とは、心の貧しさ、すなわち心がへりくだっている状態のことです。その意味での信仰者が、
キリストの十字架によって神に義と認められ、人の世にあっては迫害を受けるものなのです。
注意すべき点は、信仰者が受ける迫害と、人が自分の罪、悪、過ちのゆえに受ける苦しみやわざ
わいとは、区別されなければならないとことです。何でもかんでも迫害だと言って、自分の問題や
責任を忘れて罪に罪を重ねるようなことは避けなければなりません。
                          (創世記 3:12−13; ルカ 23:39−43)

なぜ迫害を受けるのか 
 罪に堕落した世 (テモテ第二 3:1−5) にあって、信仰者は到底受け入れられない存在です。
ときに妬まれ、ときに嘲られ、ときに攻撃され、ときに食い物にされます。それは罪過ちゆえの
「刈り取り」ではなく、不当な抑圧・攻撃であり、迫害です。信仰者はその備え持つ特徴のゆえに、
迫害されるものなのです。            (ガラテヤ 5:22−23)

義のために迫害されている者の幸い 
 信仰者は、人の世にあって迫害に晒されますが、決して神の愛から引き離されることはありません
(ローマ 8:31−39)。御国の住人となったということは、もはや神の側に置かれたということです。
ならば、どんな迫害も恐るるに足らず、です (ルカ 12:4)。天の御国を受け継ぐことの幸いを噛み
締めて、キリストに立ち続けるのです。  
 至福の教え第一「心の貧しい者」と第八「義のために迫害されている者」との幸いの内容は「天の
御国はその人たちのものだからです」と同じです。つまり、至福の教えの八通りの姿は、「こういう
人もいれば、こういう人もいる」ということではなく、「天の御国の住人は、この八通りの特徴をす
べて併せ持つものである」ということです。御国の住人とは、神の前に霊的乞食となってへりくだっ
た「心の貧しい者」であり、人の世の空しさを「悲しむ者」であり、この世にあって自分の欲の達成
のために戦わない「柔和な者」であり、神の義に及び得ない罪人だと納得しているがゆえに「義に
飢え渇く者」であり、神のあわれみを受ける「あわれみ深い者」であり、遮るものなく神を見ること
のできる「心のきよい者」であり、神の平和がその人格から自ずとにじみ出る「平和をつくる者」で
あり、そして「義のために迫害されている者」であるということです。
 救いとは、天の御国の住人になるということは、一度死んで新しいものとして生まれた、もはや
自分ではなくキリストのいのちによって生きるものとなったということです (ヨハネ 3:3; ガラテヤ
2:19−20)。そうなれば、この世にあってどんな迫害を受けようとも、揺らぐことのない慰めと平安
があります。 そこに現実味がないというのであれば、頑なで高ぶる古い自分がまだ死んでいない
ということでしょう。
 改めて、イエスの語る山上の垂訓に、至福の教えの一つ一つに、真剣に向き合うことが大切では
ないでしょうか。

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