「罪のもたらすもの」 | 2007年2月4日 松下 信 牧師 |
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サムエル記第一2:11−36 | ||
エルカナの妻ハンナは子どもに恵まれませんでした。 切実な願いと祈りによって、やっとの ことで男子を授かったハンナは、約束したとおりに、その子を主におささげしました。 幼子サムエルは忠実に主に仕え、祭司エリに仕えていました。彼は母ハンナに愛され、祈ら れて成長してゆきました。祝福されたサムエルと両親とは対照的に描かれているのが、エリ の家庭であります。 祭司であるエリの家族の罪に焦点が合わされています。 嘆かわしい息子たちの愚行が描写 されているのであります。 エリの息子たちであるホフニとピネハスも祭司でありました。 しかし、彼らはならず者で主を畏れていませんでした。ですから、幕屋にいけにえをささげ に来るイスラエルの人々から、無理矢理にささげものの肉を奪い取って、自分たちの欲望を 満たそうとしていたのであります (12−14節)。 この息子たちに対して、エリは父親としての使命と責任を果たしていませんでした。 父親は 自分の息子たちの罪を糾弾し、彼らを罪から離れさせ悔い改めに導く責任があるのでありま す。しかし、エリには、わが子さえも真理に導きいれる霊的な指導力がありませんでした。 まして、エリにイスラエルの民を導く霊的な力があろうはずがありません。このような祭司 のもとでイスラエルの民たちは、惰眠をむさぼる霊的堕落状態に陥ったのであります。 このことを教会に適用するなら、教会は牧師の霊性によってすべてが決まるということであ ります。 この時代、いかに霊的指導者を必要とする時代でありましょうか。 今教会は指導 者の霊性が本当の意味で問われています。 そしてどんなにすばらしい信徒であろうとも、 牧師以上に霊的成長を遂げることは難しいのであります。 教会は牧師の霊性が問われて いるのであります。 エリの息子たちは残念なことに、父親の、そして祭司の忠告に耳を傾 けることはありませんでした。 そして、罪を犯し続けたのであります。 結果として神の人 が告げた神のみこころ (29−30節)は、エリ家にとってとても悲しいものでありました。 この預言どおりに、ホフニとピネハスは死に、その知らせを聞いた祭司エリは仰向けに倒れ て首を折って死にました。この後、エリ家は没落し窮乏生活を強いられ、やがて滅びていき ました。 【 結 論 】 主を尊ばない者は何とみじめでありましょうか。主の前に誠実に歩まない人々は何と悲しい ことでしょうか。 あなたは主にあって祝福をいただきたいと思いませんか? どうしたら、主からの祝福をいただけるのでしょうか? 主を畏れることです。主を信じることです。そして主に従うことであります。 「罪から来る報酬は死です。 しかし、神のくださる賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」 (ローマ6:23) |