「神の召しにふさわしく」 | 2007年9月2日 下山田耕一副牧師 |
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Tテサロニケ4:1〜12 | ||
パウロは、神の御心はあなた方が聖くなることだ、と明言しています。 では聖くなるという ことはどういうことでしょうか。 1.罪を知る。 私たちは生れながらの罪人である、と聖書は教えます。それは人が神を神とせず、神を離 れて自己中心に生きる道をあえて選び、生きてきたからです。 振り返ると、神様がおられる のにそれを無視して、自分勝手に苦労してきたつもりでおりました。したいと思う正しいこと が出来ず、したくない悪が次々と湧いてきて自己嫌悪に陥ってしまいました。神様が愛した者 を愛せず、むしろこれを滅ぼそうとしてきました。(悪口、陰口などに花が咲くこれも罪人の 性質) 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ない(ロマ3:23) とある通りです。 神様はご自分の所に一人でも多くの人が帰ってきて、神を神とし賛美する、 神の国に憩う家族を待っておられます。 しかしそれは、罪あるものをそのまま黙認する事ではありません。神は、「罪を罪」として裁 かずにはいられない聖いお方です。 罪は裁くと決めて、厳しいお方です。ですから、イエス 様がその身代わりとなられました。私の身代わりに十字架につき、人に捨てられ、神に裁かれ、 私がつくべき十字架で死なれました。 しかし、これで神様は義に対する怒りを納めると約束 されました。 聖くなったから、救われているのではなく、イエス・キリストの犠牲の上に赦し があることを知る事が聖さへの一歩です。 2.この世で聖く パウロは具体的な助言をもって、聖化の歩みをしなさいと勧めています。この世で聖く歩み を始める、聖化の歩みです。 具体的な助言は、 @あなたがたが不品行を避け、A各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、 B神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、Cこのようなことで兄弟を踏みつけたり、 欺いたりしないことです。 当時、アテネの文化的影響を受けていたテサロニケの町は、性的モラルの著しい低下で満ちて いました。いつの時代も、社会風潮の影響下でなんとか戦って聖さを保つことが必要です。 社会の‘当たり前’から私たちは離れ、神の聖さを求めよとパウロは言います。 3.本当の聖さ しかし、それは社会からの断絶を意味してはいません。パウロはむしろ「自分の仕事に身を 入れ、自分の手で働きなさい」。「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ」、 「また、乏しいことがないようにするためです」。 これは立派な社会生活を表しています。クリスチャンは確かにこの世のものではありません。 しかし、社会から分離して勝手に生きているものでもありません。世捨て人になることを意味 してはいません。そうではなく、社会生活の中で純潔を保ち歩むことが大切なのです。 こんな私を聖いとして下さる、その宣言こそが聖いのです。 聖さは人間によらないのです。 神の召しにふさわしく、罪を知り聖く歩み、聖くされた者として堂々とこの道を進みましょう。 |