「 家庭における基準 ―奴隷と主人― 」 |
2007年10月14日 松下 信 牧師 |
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エペソ人への手紙6:5−9 | ||
古代においてメソポタミア、エジプト、ギリシヤまたローマにおいても、奴隷は他の財産と 同じように、財産でした。それは人間ではなく、家畜と考えられていました。奴隷には家畜 としての烙印が押されました。それは焼印を皮膚に押し当て、所有者である主人に所属してい ることを示すものでありました。奴隷売買は普通の商品を売買するのと変わりはありません でした。 奴隷は彼が仕える家族の生活(宗教)に参加していました。たとえば、主人がヘブル 人ならば、彼はヘブル人として割礼を受けなければなりませんでした。 安息日の休息を守り、過ぎ越しの祭りを含むすべての宗教的祭日をお祝いしたのです。 奴隷は家庭(夫婦や親子)とは全く無関係であると思われがちです。 しかし、このような 背景を理解するなら、妻と夫、子と父と同じ流れの中で、家庭(家族)という社会の中におけ る奴隷と主人の関係をパウロが意識して取り上げていることが分かります。奴隷制度は当たり 前である社会情勢の中で、パウロは「神の御前にいかなる人間も、みな平等である」 と主張しています。 このパウロが、奴隷たちに対して「あなたがたは、地上の主人に従い なさい」と命じているのです(5節)。 8節は、神の視点に立って語られています。 次の世にあっては、奴隷と自由人の差別は なくなります。そこで問われるのは「主人とは誰か?」「奴隷とは誰か?」ではなく、「神の みこころを行った者は誰か?」であります。 キリストの法廷では、奴隷・自由人を問わず、 一人ひとりがその働きに従った報いを、イエスさまの御手から直接受けるのです。 9節は主人に対する勧めです。奴隷たちに要求されたと同じ原則が、主人たちにも要求 されています。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのように しなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)というイエスさまの黄金律は、ここ にも生きています。主人も奴隷も、人であります。道徳や宗教における義務の原則は、奴隷 の行動を制限し束縛するものですが、同時に、主人の行動をも制限し束縛するものなので す。 【 結 論 】 この時代、奴隷と主人の関係によく似た関係は存在しています。 雇い主と雇われる人、 先生と生徒、師匠と弟子、さらに教会の牧師と信徒などの関係の中に、上下関係が生じ、 平等ではない関係が生じ、自由を束縛するような状況が作り出されていないでしょうか。 その中で求められるのは、互いに愛し合うことです (マタイ7:12)。 また、パウロの自由、 平等の思想は、当時の社会を変革する大きなうねりを引き起こしました。 そこには、18世紀の自由と平等を求めて血を流して戦ったフランス革命のような社会・政治 制度の変革はなくても、キリストに根ざす人間相互の誠実さは、黙々と脈打っていました。 この自由、平等の思想が土台となり、世界を変革してきたのであります。 あなたは、恐れおののいて、真心から、主に仕えるように、喜んで、隣人に仕えておられ ますか? 主が私たちのために命を捨てられたように、私たちも、愛をもって隣人に仕える 者としていただきましょう。 |