「知れ、主こそ神」 | 2009年9月6日 松下 信 牧師 |
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詩篇100:1−5 | ||
あなたは、畏れをもって神を礼拝しておられますか。 礼拝が自分を喜ばせる場であり、受けることを期待して参加しているなら、認識を改めなければ なりません。 皆さん、礼拝とは何でしょうか。 礼拝は人が相手ではありません。 受けるものでも、自分を喜ばせる場でも、教育する場でもありません。 礼拝とは 「神を崇め、その栄光を現わすこと」であり、また「神にささげること」であります。 旧約時代には、イスラエルは犠牲とささげ物を主におささげし、新約時代には、キリスト者は 「自分自身を」 を主におささげしました(ローマ人への手紙12:1)。 米川明彦さんは、worshipという言葉が 「価値ありとする」 という意味であることから、 「礼拝とは、神さまに最高の価値があることを見出し、神さまに栄光を帰することである」 と 教えています。 また、ジョン・マッカーサー牧師は、礼拝とは「神に向けられた誉れと崇敬で ある。」 と定義し、究極的に 「礼拝が私たちの生き方そのものになる」 べきであると教えて います。 詩篇100篇は礼拝への招きの歌です。 今朝は、このみことばをもって主を崇めましょう。すべての被造物(造られたもの)は 「全地」 という言葉に包括され、主の御前に礼拝をささげるために招かれています。 礼拝は喜んでささげるものです。 強制されて、いやいやささげるものではありません。 自分の意志で積極的に御前に進み出るのです(2節))。 3節には 「知れ、主こそ神」 と主張されています。 私たちが愛する大切なお方が神さまで あることを知るなら、私たちの姿勢もおのずと変わってくるのではないでしょうか。 神さまは、私たち人間を造られたお方です。 人間は自分自身が神であるかのように高ぶり、高慢になって我が物顔に振舞う愚かな存在です が、「主御自身が真の神である」 と知るとき、私たちは被造物に過ぎず、儚い存在であることを 悟り、謙遜にさせられるのであります(3節)。 【 結 論 】 ここに竹森満佐一牧師の書かれた小冊子があります。ここから教えられることが多くありまし た。ほんの一部分を紹介いたします。 「礼拝とか崇めるというのでは、恐らく十分ではないと思います。それは、神を拝むことなの であります。 わたしたちは、神を礼拝するとか、崇めるとか、言いますが、神を拝むという ことは、少し異様に感じるのではないでしょうか。 拝むというのは、お寺やお宮ならありそう なことだが、キリスト教では、場違いだという気持があるのではないでしょうか。 それほどに、神を拝むという真の意味の礼拝が、わたしたちからも遠いものとなっている のであります。・・・礼拝は信仰の中心であるとか、もっと大事なものであるとかは、よく聞く のです。 しかし、実際に礼拝はどういうものであるかということは、残念ながら語られない ようです。 その一つの理由は、礼拝が拝むことであるという素朴な、そして、一番大切なことを考えようと しないからです。・・」(礼拝−その意味と守り方−」竹森満佐一著5〜7ページ) 礼拝とは主を拝むことであります。 愛と正義と真実に満ちておられる創造主の御前に、畏怖の 念をもって額ずくこと、拝むことが礼拝なのだと、心に刻みましょう。 「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。 主に感謝し、御名をほめたたえよ。」 (4節) |